Community Serviceのオフィスへ行ってきました。
働くことの出来る場所のオプションは50か所以上あり、自ら電話をしてお願いをしないといけないそうです。
お金がない人のためのServiceなのにFee(手数料)として150ドルも取られました。
業種は様々で警察署、老人ホーム、ホスピス、Animal Shelter(保健所)、エイズ患者介護センター、などなど・・
とりあえずじっくり読んで明日までに考えたいと思います。
アルコール依存症といえばAAミーティングです。
AA = Alcoholics Anonymous (無名のアルコール依存症者たち)という意味だそうです。
日本でも主要都市にはあるかと思いますが、アメリカは町のそこらじゅうにグループがあります。
多いところでは一日に20回以上のミーティングが行われています。
断酒を決めた翌日(睡眠1時間後)、初めてミーティングへ足を運びました。
私が行ったミーティングはSaturday Women's Groupという女性限定のものでした。
始まる数分前に部屋へ入ったのですが、20人ほどの女性が殆ど顔見知りのような感じでおしゃべりをしていました。
4~5人の女性が私を見ない顔だと気付いたらしく自己紹介をしてくれました。
ミーティングが始まり、まずはその日誕生日を迎えたメンバー2人のバースデーソング。
その後、恐らく私に向けてだと思うのですが(ほぼ全員が顔見知りっぽいので)その2人から今に至るまでの壮絶な人生を語ってくれました。
アメリカは保守的な日本と違い、例え親子間でも個人主義を貫く人が多いです。だから離婚率やDV率が高いのだと思います。
その二人も思春期の親子間のすれ違いなどが理由でアルコールに走ったところから始まってました。
短絡に説明すると、アルコールで死にかけ全てを失いかけた中でもパートナーがそばにいてくれたおかげで自分の人生を取り戻そうと決意し、AAへ足を運んだそうです。
AAなんて・・て最初は思っていたけれど、自分は依存症だと認めざるを得ない状態を超えると後ろめたさもなく、自然と他の人の話に耳を傾けている自分がいました。
メンバーの中には断酒前、オフィスの冷凍庫にウォッカのボトルをキープし、それをボスと飲みながら不動産屋の秘書として10年以上働いていた・・爆、というとんでもない人もいました。
ま、私もほろ酔いで出勤、休憩中にバーで数杯、その後何気ない顔で夜まで仕事・・を繰り返していましたが。
過去に笑いを交えて語ってくれたお陰か、またここに来ようと思えました。
そんなこんなで話を聞き入り2時間半が経過し、ミーティングは終わりました。
一言、挨拶がしたかったので代表らしき女性に・・・
「最初に自己紹介できなくてごめんなさい、この会に来てよかったです。また来ます。」
と伝えたところ、彼女から名刺と別の女性限定ミーティングの予定をもらい、
「また是非戻ってきて、今日は来てくれて本当にありがとう。」
と言われました。
実は、それが今日だったんです・・涙。
今日限りの事ではないのでいいのですが、何だか罪悪感が残る私・・。
ということで今日で断酒4日目。
2010年9月29日水曜日
コミュニティーサービス(Community Service)→罰金代わり
アメリカでは課せられた罰金(Fine)を現金で払う代わりに、郡への奉仕活動によって相殺することができます。
こんなことならコツコツ現金で払うんじゃなかったぁ、とちょっと後悔。。
追記・・
とある日本のテレビ番組で誰かが武田鉄矢さんが言った一言を取り上げていました。
「真っ暗になってこそ星は見える。中途半端に明るいと星は 見えない」
本当にそうです、私の今までの生活は小さな星が憔悴気味にうす暗くしていたから進歩せずダラダラここまで来ていたのだと思います。
全ての中途半端を切り捨てて(失って)こそ自分の本当の達成感に向けて努力をする、と信じております。
それではまた!
1時間10ドル(約1000円)です。それをコミュニティーサービスと言います。
2度目のDUIで課せられた罰金は約2300ドルでした。(すみません、2度目のストーリは後にお話しします)
有罪判決が出たのは去る今年の5月ですが、仕事中にコツコツと毎月支払っていたので残りは1600ドル。
仕事も辞めて、ほぼ主婦のような生活を送っている私なのでどうせならお金を払わず社会経験のためにも・・と思い、参加を決めました。
これからその面談へ行ってきます。
こんなことならコツコツ現金で払うんじゃなかったぁ、とちょっと後悔。。
追記・・
とある日本のテレビ番組で誰かが武田鉄矢さんが言った一言を取り上げていました。
「真っ暗になってこそ星は見える。中途半端に明るいと星は
本当にそうです、私の今までの生活は小さな星が憔悴気味にうす暗くしていたから進歩せずダラダラここまで来ていたのだと思います。
全ての中途半端を切り捨てて(失って)こそ自分の本当の達成感に向けて努力をする、と信じております。
それではまた!
Story about 1st DUI (飲酒運転) Vol.1
DUI = Driving Under Influence・・・日本で言う飲酒運転のことです。
それは数年前のことでした。
住んでいた小さな町から隣の大きな町へ引っ越しをし数週間経った頃。
新しい学校での学生生活も始まり、数週間後のとある木曜の夜。
アパートで夕飯を作っていたら以前住んでいた町の友人から連絡があり、誕生会をしているから来てほしいと。
当時は友人もあまり多くなかったのでそんな少ない友人の誘いを断るのは良くないと思い、夕食後に40分ほど離れた町まで向かうことにしました。
学生のパーティーです、当然アルコールがメインのドンチャン騒ぎです。
気付けば時計は2時を回っていました、意識は少し朦朧としていた気がします。
飲んでいたのはウォッカのミックスドリンク、誰かが作ったものなのでアルコールとジュースの割合がどれぐらいだったかは知る由もありません。恐らく、相当強かったと思います。
帰ろうとしたら周囲から止められました。
「少しここで休んで酔いを覚ますべきだ」
それでも私は彼らの手を払ってハンドルを握りました。
運転前に飲み干した最後のアルコールがヒシヒシと私の血中濃度を上げていくのが分かりました。
意識は朦朧とし、フラフラ運転。
あと少しで自宅へのEXITだという数分前、ルームミラーに眩しいくらいの赤と青のライトが移りました。
「警察だ・・」
大人しく車をハイウェイの端へ寄せ、車中で待機しました。
一人の警官が運転席にいる私のところへ来たので窓を開けると(決まり文句なのでしょうが)
「お酒臭いね、免許証と自動車保険証を見せて」
と言われたので大人しく差し出しました。
その後、外へ出ろと言われたので外に出て酔っているか酔っていないかのテストをすることに。
DUIで捕まった殆どの人は「全部パスしてたのに」と思っていると思いますが私もその一人でした。
テストの内容はというと・・
・白線に沿って歩く
・警官の持っているミニライトを目で追う
・ヨシと言われるまで目を閉じて片足で立つ(これ、シラフでも結構難しいです)
・アルファベットを後ろ(Z)から言う(これ、日本人の私じゃ無理な話です)
などなど。
結果、FAIL(不合格)となりアルコール探知機でチェックすることに。
肺活量が足りないせいか、測定不可能と判断されそのまま手錠を掛けられました。
車はその場に放置され、私はそのまま所持品もないままパトカーへ押し込まれました。
連れて行かれたのは町の総合病院。
待ち時間があったのでトイレへ行きたいと言い、トイレで強制的に嘔吐。(社会人時代、大人たちに必死で付いていくために培った技)
嘔吐すればアルコール濃度が少しでも下がるだろう、と安易な考えの元です。(後々分かりましたが意味ないです)
その後、血液採取をされ再びパトカーへ押し込まれ護送。
着いた先は郡拘置所でした。
靴を脱ぎ、身体チェックをされ、写真を取られ、身元確認の後、小さな牢屋へ入れられました。
牢屋はコンクリート張りでその奥には身長以下の高さのコンクリートの仕切りがある鉄製のトイレ。
そこには2~3人の女の人がいました。話を聞くと、皆、飲酒運転で捕まったとのことでした。
とりあえずお酒はまだ体に残っていたのでそのまま寝ることにしました。(はい・・緊張感まるでなかったです・・)
何時間経ったのか分かりませんが、一人の刑務官が私の名前を呼んだので牢屋から出ることに・・。
その後、持っていなかったはずの所持品(財布・携帯)が返却され(恐らく警官が持っていたかと)、釈放されました。
外へ出ると既に明るくなっていました。携帯の電源を入れ、時間を見ると朝の7時前でした。
とても歩いて帰れる距離ではなかったので友人へ連絡を入れようとしましたが、週末の早朝ということもあり連絡はつかず、迷っていると・・
「ダウンタウンへ行くけど一緒に乗っていくか?」
と3~4人の男の衆が声をかけてくれました。
家はちょうどダウンタウンからすぐだったので、
「あ、じゃあお願いします」
と、私。
その後はそのまま徒歩で家まで戻りました。
家のキーは車のキーと共に没収されているのでベルを鳴らしルームメイトにドアを開けてもらいました。
早速、インターネットで検索を始めました。
正直、アメリカで飲酒運転をDUI(Driving Under Influence)と省略名で呼ばれることすら知りませんでした。
事態の深刻さに気付いていなかった私は、そこから悪夢にうなされる毎日を過ごすことになるのです。
裁判所への出頭、多額の出費、保険料(Auto Insurance)の値上げ、DUIスクール。
どのサイトを見ても書かれていることは、「有能な弁護士が貴方を救います(A skilled attorney will help you)」です。
そして何よりも恐ろしいのはDUIは交通違反ではなく、微罪だということでした。
微罪でも犯罪は犯罪(Crime)です。
日本でも犯罪とはかけ離れた生活を送ってきた私が、この異国の地で犯罪者となったのです。
それから私は色々な不安が頭を駆け巡り、夜も眠れない日々が続きました。
つづく・・・
それは数年前のことでした。
住んでいた小さな町から隣の大きな町へ引っ越しをし数週間経った頃。
新しい学校での学生生活も始まり、数週間後のとある木曜の夜。
アパートで夕飯を作っていたら以前住んでいた町の友人から連絡があり、誕生会をしているから来てほしいと。
当時は友人もあまり多くなかったのでそんな少ない友人の誘いを断るのは良くないと思い、夕食後に40分ほど離れた町まで向かうことにしました。
学生のパーティーです、当然アルコールがメインのドンチャン騒ぎです。
気付けば時計は2時を回っていました、意識は少し朦朧としていた気がします。
飲んでいたのはウォッカのミックスドリンク、誰かが作ったものなのでアルコールとジュースの割合がどれぐらいだったかは知る由もありません。恐らく、相当強かったと思います。
帰ろうとしたら周囲から止められました。
「少しここで休んで酔いを覚ますべきだ」
それでも私は彼らの手を払ってハンドルを握りました。
運転前に飲み干した最後のアルコールがヒシヒシと私の血中濃度を上げていくのが分かりました。
意識は朦朧とし、フラフラ運転。
あと少しで自宅へのEXITだという数分前、ルームミラーに眩しいくらいの赤と青のライトが移りました。
「警察だ・・」
大人しく車をハイウェイの端へ寄せ、車中で待機しました。
一人の警官が運転席にいる私のところへ来たので窓を開けると(決まり文句なのでしょうが)
「お酒臭いね、免許証と自動車保険証を見せて」
と言われたので大人しく差し出しました。
その後、外へ出ろと言われたので外に出て酔っているか酔っていないかのテストをすることに。
DUIで捕まった殆どの人は「全部パスしてたのに」と思っていると思いますが私もその一人でした。
テストの内容はというと・・
・白線に沿って歩く
・警官の持っているミニライトを目で追う
・ヨシと言われるまで目を閉じて片足で立つ(これ、シラフでも結構難しいです)
・アルファベットを後ろ(Z)から言う(これ、日本人の私じゃ無理な話です)
などなど。
結果、FAIL(不合格)となりアルコール探知機でチェックすることに。
肺活量が足りないせいか、測定不可能と判断されそのまま手錠を掛けられました。
車はその場に放置され、私はそのまま所持品もないままパトカーへ押し込まれました。
連れて行かれたのは町の総合病院。
待ち時間があったのでトイレへ行きたいと言い、トイレで強制的に嘔吐。(社会人時代、大人たちに必死で付いていくために培った技)
嘔吐すればアルコール濃度が少しでも下がるだろう、と安易な考えの元です。(後々分かりましたが意味ないです)
その後、血液採取をされ再びパトカーへ押し込まれ護送。
着いた先は郡拘置所でした。
靴を脱ぎ、身体チェックをされ、写真を取られ、身元確認の後、小さな牢屋へ入れられました。
牢屋はコンクリート張りでその奥には身長以下の高さのコンクリートの仕切りがある鉄製のトイレ。
そこには2~3人の女の人がいました。話を聞くと、皆、飲酒運転で捕まったとのことでした。
とりあえずお酒はまだ体に残っていたのでそのまま寝ることにしました。(はい・・緊張感まるでなかったです・・)
何時間経ったのか分かりませんが、一人の刑務官が私の名前を呼んだので牢屋から出ることに・・。
その後、持っていなかったはずの所持品(財布・携帯)が返却され(恐らく警官が持っていたかと)、釈放されました。
外へ出ると既に明るくなっていました。携帯の電源を入れ、時間を見ると朝の7時前でした。
とても歩いて帰れる距離ではなかったので友人へ連絡を入れようとしましたが、週末の早朝ということもあり連絡はつかず、迷っていると・・
「ダウンタウンへ行くけど一緒に乗っていくか?」
と3~4人の男の衆が声をかけてくれました。
家はちょうどダウンタウンからすぐだったので、
「あ、じゃあお願いします」
と、私。
その後はそのまま徒歩で家まで戻りました。
家のキーは車のキーと共に没収されているのでベルを鳴らしルームメイトにドアを開けてもらいました。
早速、インターネットで検索を始めました。
正直、アメリカで飲酒運転をDUI(Driving Under Influence)と省略名で呼ばれることすら知りませんでした。
事態の深刻さに気付いていなかった私は、そこから悪夢にうなされる毎日を過ごすことになるのです。
裁判所への出頭、多額の出費、保険料(Auto Insurance)の値上げ、DUIスクール。
どのサイトを見ても書かれていることは、「有能な弁護士が貴方を救います(A skilled attorney will help you)」です。
そして何よりも恐ろしいのはDUIは交通違反ではなく、微罪だということでした。
微罪でも犯罪は犯罪(Crime)です。
日本でも犯罪とはかけ離れた生活を送ってきた私が、この異国の地で犯罪者となったのです。
それから私は色々な不安が頭を駆け巡り、夜も眠れない日々が続きました。
つづく・・・
2010年9月28日火曜日
断酒を誓った数週間前
悲惨でした。
ある知り合いの一言で、私の妬く30年間培ってきた全てを否定された気持ちでした。
今後、お伝えしますが過去2回のアメリカでの飲酒運転時の恐怖感を超えていたと思います。
前から不満はたくさんあったけれどそれが後押しをして仕事を辞めました。
でも、その過去は振り返らないと決めたので内容には触れません。
(ゴメンナサイ、気になっていたら・・)
その出来事が起きたのはある夜。
帰宅後、まっすぐキッチンへ向かい常にキープされていた赤ワイン1本を数分で空けました。
それからというもの、翌朝から酒屋へ行きお気に入りのワインを3本買占め約1日半で飲み干す・・という行為を数週間毎日続けました。
お陰で酒屋さんとも親しくなりましたが・・笑。その反面、後ろめたさが消えませんでした。
ワインなんて一度も一気飲みしたことはありませんでした・・でもこのころはビールの一気飲み感覚。
お酒が入っていても悪夢にうなされ、お酒が抜ければ強烈な不信感に襲われ・・の繰り返し。
勿論、食事は喉を通らず喉を通るものと言えばアルコールのみ。
驚くことにパートナーは私が1日中お酒に溺れていることを一切知りませんでした。
吐血もあったかと思いますが、何せ赤ワインなので気付くよしもありません。
前から思っていたけれど、毎日やりたいことリストが頭の中にあるのに結局何もせずダラダラとする毎日。
「しばらくはゆっくりすればいいよ、たくさん働いたんだから」
そのパートナーの一言で、一気に肩の荷は下りて前向きになるはずだったのに・・この有り様。
友人が心配をして電話をくれても前向きな発言が出来ず、会話が終わった後に後悔の日々。
体のアルコールに対する耐久力が凄まじく高くなっていることも自分で気付きました。
そんな先週末のある日、パートナーから・・
「そんなダラダラしていて平気なのか?僕の立場も考えてくれ。このままだと長くは続かない。」
このままだと彼にまで放られてしまう、それでも彼の外出後に再び一気飲みでした。
お酒に飲まれながら色々、冷静に過去を振り返り始めました。
・毎日飲酒
・飲酒運転での逮捕2度
・お酒がないと友好的になれない
・飲酒時のパートナーとの喧嘩の挙句、家出10回以上
・飲み仲間が高じての軽い浮気(といっても食事のみだけれど)
・誘いをかけてくる仲間=飲める口
・飲酒→机上での睡眠→右腕神経半年麻痺(一切動きませんでした、後にお伝えします)
アメリカでの飲酒運転は犯罪として扱われます。即ち、指紋を採取され犯罪履歴として永遠に残ります。
それを分かっていて2度過ちを犯すという行為は依存症と認める他ないとその時に「やっと」悟りました。
それだけでなく、日本での過去の過ちやアクシデントは思い返せば全て飲酒が絡んでます。
そんなこんな考えながら酔いを覚ますため寝ました。
数時間後、酔いも覚め我に返り口にしたことは・・
「私、アルコール依存症だ・・」
初めて自分で認めた瞬間、それが木曜日23日の夕方でした。
その夜はお酒が抜けて全く眠れず結局睡眠1時間でした。
今は、医者の薦める薬局での購入可能な睡眠導入剤を使用して問題ありません。
今日で断酒3日目。
ある知り合いの一言で、私の妬く30年間培ってきた全てを否定された気持ちでした。
今後、お伝えしますが過去2回のアメリカでの飲酒運転時の恐怖感を超えていたと思います。
前から不満はたくさんあったけれどそれが後押しをして仕事を辞めました。
でも、その過去は振り返らないと決めたので内容には触れません。
(ゴメンナサイ、気になっていたら・・)
その出来事が起きたのはある夜。
帰宅後、まっすぐキッチンへ向かい常にキープされていた赤ワイン1本を数分で空けました。
それからというもの、翌朝から酒屋へ行きお気に入りのワインを3本買占め約1日半で飲み干す・・という行為を数週間毎日続けました。
お陰で酒屋さんとも親しくなりましたが・・笑。その反面、後ろめたさが消えませんでした。
ワインなんて一度も一気飲みしたことはありませんでした・・でもこのころはビールの一気飲み感覚。
お酒が入っていても悪夢にうなされ、お酒が抜ければ強烈な不信感に襲われ・・の繰り返し。
勿論、食事は喉を通らず喉を通るものと言えばアルコールのみ。
驚くことにパートナーは私が1日中お酒に溺れていることを一切知りませんでした。
吐血もあったかと思いますが、何せ赤ワインなので気付くよしもありません。
前から思っていたけれど、毎日やりたいことリストが頭の中にあるのに結局何もせずダラダラとする毎日。
「しばらくはゆっくりすればいいよ、たくさん働いたんだから」
そのパートナーの一言で、一気に肩の荷は下りて前向きになるはずだったのに・・この有り様。
友人が心配をして電話をくれても前向きな発言が出来ず、会話が終わった後に後悔の日々。
体のアルコールに対する耐久力が凄まじく高くなっていることも自分で気付きました。
そんな先週末のある日、パートナーから・・
「そんなダラダラしていて平気なのか?僕の立場も考えてくれ。このままだと長くは続かない。」
このままだと彼にまで放られてしまう、それでも彼の外出後に再び一気飲みでした。
お酒に飲まれながら色々、冷静に過去を振り返り始めました。
・毎日飲酒
・飲酒運転での逮捕2度
・お酒がないと友好的になれない
・飲酒時のパートナーとの喧嘩の挙句、家出10回以上
・飲み仲間が高じての軽い浮気(といっても食事のみだけれど)
・誘いをかけてくる仲間=飲める口
・飲酒→机上での睡眠→右腕神経半年麻痺(一切動きませんでした、後にお伝えします)
アメリカでの飲酒運転は犯罪として扱われます。即ち、指紋を採取され犯罪履歴として永遠に残ります。
それを分かっていて2度過ちを犯すという行為は依存症と認める他ないとその時に「やっと」悟りました。
それだけでなく、日本での過去の過ちやアクシデントは思い返せば全て飲酒が絡んでます。
そんなこんな考えながら酔いを覚ますため寝ました。
数時間後、酔いも覚め我に返り口にしたことは・・
「私、アルコール依存症だ・・」
初めて自分で認めた瞬間、それが木曜日23日の夕方でした。
その夜はお酒が抜けて全く眠れず結局睡眠1時間でした。
今は、医者の薦める薬局での購入可能な睡眠導入剤を使用して問題ありません。
今日で断酒3日目。
はじめに・・
軽く自己紹介をします・・
私はアメリカのとある州在住の20代日本人♀です。
こちらへ来て数年、私に降りかかる惨事は後を絶えませんでした。
タイトルを見てお察しかと思いますが、私は大のお酒好きです。
20歳で上場企業の海外事業部へ配属され(英語が流暢だったため)、毎日が零時を過ぎるという「超」が付くほどの仕事人間でした。
仕事量の面でのストレスはありましたが、人間関係の問題もなく、仕事関係の同僚とは楽しく毎日を過ごしておりました。
それもこれも「お酒好き」が高じて・・というのが大きいと思います。
自分の部署のみならず他部署からの飲み会にも頻繁に誘われておりました。
そのうちに、家でも「一人晩酌」をするようになりました。
今、思えばその頃から危険サインは出ていたのかもしれません。
話は飛びますが、先週末9月24日から禁酒を誓いました。
このブログを通してなぜそう思ったのかを、過去を振り返って書き綴っていきたいと思います。
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